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2009年7月 3日

ハワイ王国の崩壊

1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけをおこなった。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「新憲法を公布しない」という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった。翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン号艦長ギルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命及び財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。

こうした状況を知ったサーストンらは、併合に時間がかかると見て、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した。初代大統領はドールが継いだ。1895年1月16日、王政復古を目指すハワイ人系の反乱があり、鎮圧にあたった政府軍に死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪で逮捕された。こうしてリリウオカラニは王位請求を諦め、共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る旨の宣言書に署名した。

1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発する。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる。アメリカは既にハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった。そして7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合の為の決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立された。要職にはハワイ共和国下の官僚がつくこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
ハワイにはこのような歴史があったのですね。とても勉強になりました。

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2008年6月10日

エピメニデスについて

こんな人物が存在していたなんて本当にビックリです。


エピメニデス Epimenides,Єπιμενίδης(生没年未詳)ギリシアの伝説的な詩人・預言者。ギリシア七賢人の一人に数えられることがある。

クレタ島のクノッソスの生まれで、プラトンによれば紀元前500年頃アテナイで予言をおこなったといわれ、またアリストテレスによれば紀元前600年頃にアテナイを浄めたとされる。

エピメニデスについて最も長く記述しているのはディオゲネス・ラエルティオスで、それによるとかつて父の命令で迷った羊を探しに出かけ、昼の暑さに洞窟の中で眠り、ついに57年間眠り続けたという。彼が紀元前596年にアテナイを浄め疫病を食い止めた方法とは、黒い羊と白い羊を手に入れて、アレイオス・パゴスで放し好きな方向へ走らせ、それぞれの羊が横になるところでその土地に関係のある神々に犠牲を捧げる、というものであった。この時のエピメニデスの提案で、アテナイとクノッソスは同盟を結び、彼は帰国後亡くなったときには157歳、または299歳になっていたという。彼の遺体はスパルタに保存された。

『クゥレテスとコリュバンテスの起源』『神統記』という5000行の詩と、『犠牲とクレタの国制について』『ミノスとラダマンテュス』という4000行の散文を書いた、とも伝えられる。アテナイやスパルタ、クレタについていくつかの予言をおこない、家や畑を浄めたり神殿を建てたりした最初の人でもあった。アテナイの改革者・ソロンとは書簡のやりとりがあったともいう。

プルタルコスによれば、ソロンはエピメニデスの助けを得て、犠牲や葬礼の習慣を改革した、という。パウサニアスは、エピメニデスの遺体の皮膚には、おびただしい文書が刺青されていた、と報告する。ギリシアでは、刺青は奴隷の習慣であり、あれほど同時代者に尊敬されていた人としては奇妙なことで、中央アジアのシャーマニズムとエピメニデスに何か関連があったのでは、と推測する学者もいる。髪を長くしていてクレタ人のようには見えなかった、という記述がディオゲネスにあり、彼の出自も明らかとは言い難い。

エピメニデスの詩と称されるものが、新約聖書・「使徒行伝」17章28節と「テトスへの手紙」1章12節に言及され、特に後者は「エピメニデスのパラドックス」として「自己言及のパラドックス」の例に挙げられる。1908年にバートランド・ラッセルが型理論についての論文で、この「すべてのクレタ人は嘘つきだ、とクレタの預言者が言った」という一節を有名にしたのである。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年3月26日

綬と略綬

こんなこと習っていなかったよ。
教えてもらえなかったこと知ると少し得した気分になりますね。

勲章を衣服に取付ける為のリボン状の部分を「綬」(じゅ)と呼ぶ。日本の勲章で「○○大綬章」、「○○小綬章」と言うのはこの部分の大きさが違う(他にも違う部分はあるが)ものである。多くの国では、この部分の模様(縦縞)が勲章の種類・等級によって異っており、ここを見ると勲章の種類・等級の判別が可能である。

最正装する場合、受章した勲章の正章を着用するのが正式とされているが、それ以外の場合は勲章の正章ではなく副章または「略綬」と呼ばれる綬をパターン化したもの(「リボン」)を着用することがある。略綬には、通常の民間服(モーニングコートなどを含む)に着用する円形のものと、武官が制服に着用するための長方形のものの2種類がある。長方形の物は単体では着用出来ない場合が多く「マウント」という金具に通して着ける。なお、勲章の略綬に類似したものとして、自衛官が着用する防衛記念章や消防団員等の表彰歴章がある。共産圏では西側や日本の制度や物に比べると綬なども単一化されておりパレードなど式典時は軍人・民間人問わず勲章をつける事が多い。

日本において、西欧に倣った勲章制度が定められたのは、明治時代である。明治4年9月2日(1871年10月15日)、新政府は賞牌(勲章)制度の審議を、立法機関である左院に諮問した。1873年(明治6年)3月には、細川潤次郎、大給恒ら5名を「メダイユ取調御用」掛に任じ、勲章に関する資料収集と調査研究に当たらせた。1875年(明治8年)4月10日、賞牌従軍牌制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)を公布し、勲等と賞牌の制度が定められた。布告では、勲一等から勲八等までの勲等を叙した者に、それぞれ一等賞牌から八等賞牌までの賞牌を下賜するとした。このとき定められた賞牌の制式は、現在の旭日章の基となっている。

同年末には、有栖川宮幟仁親王以下10名の皇族が、初めて叙勲された。皇族以外の者に対して初めて叙勲が行われたのは翌1876年(明治9年)で、台湾出兵の功により西郷従道が勲一等に叙された。また同年には、清国との交渉に功のあったアメリカ人のル・ジャンドル(リセンドル)将軍とフランス人のボアソナードが、最初の外国人叙勲として勲二等に叙された。

1876年(明治9年)10月12日、正院に賞勲事務局(同年12月に賞勲局と改称)を設置し、参議の伊藤博文を初代長官に、大給恒を副長官に任命した。同年11月15日の太政官布告により、賞牌は勲章(従軍牌は従軍記章)と改称された(明治9年太政官布告第141号)。また、同年12月27日の詔書により、勲一等の上位に大勲位が置かれた。大勲位には、対応する勲章として菊花大綬章と菊花章が制定された。1888年(明治21年)1月3日には、制度運用の円滑化を図り、諸外国の例に倣い、宝冠章と瑞宝章が新設され、旭日章には旭日大綬章の上位に旭日桐花大綬章が、菊花章には菊花大綬章の上位に菊花章頸飾が置かれた(明治21年勅令第1号)。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2007年11月11日

奈良時代の人物

手児奈。凄い美人だったんだって。

今日はこのようなことについて調べてみまし

手児奈(てこな)とは、下総国勝鹿(葛飾)の真間(現在の千葉県市川市)に奈良時代以前に住んでいたとされる女性の名前。絶世の美女であるが故に大勢の男に求愛され、彼女を巡って争いが起こり、それを苦に入水したという伝説が伝わっている。

詳細については諸説あるが、代表的な説によると彼女は舒明天皇の時代の国造の娘であるとされる。彼女は近隣の国へ嫁いだが、勝鹿の国府と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に逆恨みされ、苦難の末、再び真間へ戻った。然し、嫁ぎ先より帰った運命を恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子を育ててつつ静かに暮らした。だが、男達は彼女を巡り再び争いを起こし、これを厭って真間の入り江(現在の真間川)に入水したと伝えられている。古くから語られていた伝説が、この地に国府がおかれた後、都にも伝播し、詩人たちの想像力をかきたてた。

万葉集には高橋虫麻呂や山部赤人らによって詠われたこの伝説に関する歌が複数見られる。

737年に行基がその故事を聞き、手児奈の霊を慰めるために弘法寺を開いた。現在は手児奈霊神堂に祀られている。また、亀井院には手児奈が水汲みをしていたとされる井戸が現存している。

手古奈、手児名などとも書くが、正式には手児奈。

上田秋成による『雨月物語』の一編浅茅が宿は同じく下総葛飾の真間を舞台とし、手児奈の伝説をベースとしている。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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